妥協

飲み会について、以前にもここで文章を書いた記憶がある。今回も全く同じ友人二人と、いつもと同じように仙台駅前に集合し、ふらふらと歩き、今回は駅から歩いて割とすぐの大衆居酒屋に入ることにした。古い映画のポスターやレコードのジャケットが店中に貼られていることで有名なチェーン店だ。開店して間もなかったので、店内は空いており、我々はすぐに最初の酒を手にすることが出来た。

今回も前回と同じように―よくよく考えてみれば毎回このパターンだけれど―友人二人の彼氏の愚痴や、惚気や、性生活について勢いよく話が展開され、私が時折「そうだね」「それはひどいね」といった相槌か同意を示した。片方は記念日をすっぽかされ、もう片方は性行為について不満を持っていた。どちらも激しく怒っていた。二人の言い分はもっともだった。私は心の底から彼女たちの怒りに同意し、早く別れればよいと意見を示した。すると二人は顔を見合わせ、「でもねえ」と口を開いた。いつもそうだった。私は二人の言い分に納得しているし、だからこそもっと良い相手が見つかると思っているのに、彼女たちは別れようとはしなかった。私は彼女たちに意見を提供することではなく、同意を示すことでしか役に立てないようだった。まだ私のほうが、彼女たちの恋人よりも、彼女たちを理解し、愛することが出来る自信があった。でも、もし私が彼女たちと付き合えたとしても、なんだかんだ理由をつけて振られるのだろうとも思った。きっと「重すぎる」とかなんとか言われるのが目に浮かんだ。

そのあと一人は店を出たところで離脱し、残った一人と二人でカラオケに入った。最初の二時間はめいめいが好きな曲を歌い、残りの二時間は恋愛観についての討論が交わされた。彼女は八本目の煙草を灰皿に押し付けながら、「恋愛というのはどこかで妥協が必要なんだよ」と呟いた。これが嫌、あれが嫌というのは誰にでもあり、その妥協できる範囲は我慢しなければいけないらしい。私が彼女から聞かされた恋人の嫌なところは、とっくに我慢できる範囲を超えている気がしたけれど、それについては黙っておいた。彼女が我慢できるのならば、私が口を挟む問題ではない。

家について、彼女たちの話を思い出しながら、私は妥協が出来ない心の狭い人間なのだと気が付いた。だからこそ、22年も生きてきて、ろくに恋人が出来ないのだ。でも、恋人がほしいとは思えなかった。二人には私の分まで幸せになってほしいと願いながら、髪を洗った。二度洗いしても、染みついた煙草の匂いは消えなかった。彼女たちのことは大好きだけれど、煙草の匂いだけは嫌な部分だった。もっとも、それは我慢できる範囲の微々たるものでしかない。