森永

気が付けば十月になっていた。あまり順調とは言えない就職活動に嫌気がさし、文字にすればどこか気持ちが安らぐかもしれないと一縷の希望を託して書き始めた(始めたというより衝動に近い)このブログも、気が付けばこれで十五個目の文章となる。一月に提出が迫っている卒論はちっとも進まないのに、締め切りの無い文章はこれだけすらすら書ける自分に驚きを隠せない。小説家にでもなれるのではと、某小説投稿サイトに登録してさあ何か書くぞと意気込んだ瞬間、ピタリと風がやんだように一文字も思いつかなくなってしまった。そもそも小説家たちは締め切りに追われているのだ。犯行動機とアリバイとトリックさえあれば推理小説が書けるんだけどな、と私は溜息をついた。

 

先日内定式のために再び本社のある名古屋へ行き、帰る際に静岡の三島に立ち寄った。高校時代の友人が大学進学を機に三島で一人暮らしをしていたからだ。懇親会で浴びるように酒を飲み、仙台の気温からすれば異常気象に近い名古屋の暑さですっかり汗が染みついたYシャツの私を、友人は嫌な顔せず―内心嫌だったかもしれない―駅まで迎えに来てくれた。夜中の十一時半のことだった。

彼女の家は、私が今まで泊めてもらった友人たちのそれと比べて、確実に最も家具のない部屋だった。テレビが床に直に置いてあり、その向かいの壁際にシングル・マットレスが一枚敷いてあった。一人寝るのが精一杯といった、一人暮らしに最適な、完璧に無駄のないシングル・マットレスだった(結局そこに二人で寝たのだけれど)。部屋の中央には小さな正方形のテーブルが置かれ、その上には(就活カバン以外に何も持たずに来た愚かな)私のために部屋着やバスタオルがきちんと畳まれて用意されていた。一人暮らしを始めた女子大学生特有の無駄な家具―芳香剤を染み込ませた木の棒が刺さった馬鹿みたいな小瓶だとか、木の形をしたガラス製のアクセサリースタンドだとか、奇抜な配色のマカロンの形をした低反発クッションだとか―は一切無かった。素晴らしい部屋だと思った。翌日、彼女と三島観光をしてから帰路についた。夜の仙台は今まで違う国にいたのではと思うほど寒く、私は二日間手に持っていたスーツの上着にようやく袖を通した。

 

「本日の最高気温は二十度、少し肌寒くなるでしょう」と、テレビの向こうの地方局女性アナウンサーが、地方局女性アナウンサー特有の溌剌とした口調と、地方局女性アナウンサー特有のいささか大袈裟すぎる笑顔で述べた。私はそれを陽射しが降り注いで暖かいから暑いに変わりつつあるリビングで、アイス・ココアを飲みながら眺めていた。仙台に帰ってきた夜、あまりの寒さに最寄りの西友で買ったココアだ。結局ホット・ココアとして飲まれたのはその一日だけで、あとは専らアイス・ココアとして飲まれている。私はグレーのニットに紺色の巻きスカートを履き、彼女―ここでは三島の友人ではなく地方局女性アナウンサーのことを指す―を思い出して、ストッキングではなく30デニールの黒タイツを手に取った。ローファーを履いて外に出ると、そんなに寒くはないしタイツはまだ早いかもしれないと思ったけれど、右手が勝手にドアを閉め鍵を掛けていたのでやむなく歩き出した。ローファーは歩くたびにかぽかぽと踵が浮いた。内定式の前日にパンプスを新調する際、足のサイズを今まで1.5センチも間違えていたことを思い出した。24.5センチのパンプスは捨てられ、新しい23センチのパンプスは驚くほどしっくり足に馴染んだ。ローファーを新調する金はないので、今度から厚手の靴下を履いて誤魔化そうと、私はかぽかぽとローファーを鳴らしながら思った。日中はやはりタイツでは暑く、私は地方(以下略)を恨んだ。私と友人は暑い日はカレーを食べようと、大学の近くにあるインドカレー屋さんでバターチキンカレーを食べて帰宅した。

四時を回ると、まるで長距離走者が最後の百メートルに差し掛かった時のラストスパートのように驚くほど早く日は沈み、空気は冷たくなっていた。朝にアイス・ココアなんか飲んだのが嘘のように寒かった。ヤカンを火にかけ湯を沸かし、マグカップを手にしたところで、粉末コーヒーが瓶の底にわずかにこびりついていることに気が付いた。なんとか小匙一杯分をかき集め、湯を注いだ。お湯の向こうにうっすらとコーヒーの味がした。半分くらい飲んだところで冷めかけてきたので、もう一度湯を沸かして足した。もうそれはコーヒーの味なんかしない、色のついたお湯でしかなかった。どうしてもコーヒーが飲みたかったので、コーヒーを買うためにもう一度外に出ることにした。昼間の恰好では寒いだろうと、一年ぶりに出した毛糸のカーディガンは、なんだかちくちくと肌に不快感を与えるので脱ぎ捨ててしまった。二十一回も冬を越した筈なのに、去年この時期何を着ていたのかもう思い出せなかった。ローファーもかぽかぽと外れることを思い出した。一瞬でコーヒーなんか飲む気が失せてしまった。何もかもが自分にしっくり合っていないような気がした。服も、靴も、自室を占領するダブルベッドも、やっとの思いで獲得した内定先ですら、自分には合っていないような気がした。ふと、三島で友人と二人で寄り添って寝た夜のことを思い出した。シングル・マットレスは二人で寝るには窮屈だったけれど、あれは自分の体にしっくり馴染んでいたような気がした。早く自分にしっくり馴染む居場所を見つけたかった。