電話

外では依然として雨が降り続いていた。さっき少し小ぶりになったと思ったのに、今はまた激しくコンクリートを打ち付ける音が店内にまで聞こえてくる。雨が強くなる前に喫茶店を見つけてよかったと、私は窓の外でトラックが激しく水しぶきを上げて走るのを眺めながら胸を撫で下ろした。また強くなってる、いやねえ、と女性店員が大袈裟に言い、ほんとですよねえ、とまた別の女性店員がそれに答えた。店内には私以外の客はおらず、したがって店員同士のたわいのないやり取りが店内で唯一の会話だった。BGMは基本的にピアノ音楽のみらしく、今は久石譲の「帰らざる日々」が静かに流れていた。

テーブルの上には、真冬の真夜中のように真っ黒なコーヒーと、あくまで添え物としての適量をわきまえた生クリームとスコーン、そして残高が二千円のみとなった預金通帳が置かれていた。かれこれ三十分程預金通帳を眺めたものの、残高は減りもしないし増えもしなかった。一時間ほど前に、延納していた前期分の学費を振り込んだからだった。果たして私の半年間に47万円もの価値があったかは分からないが、ともかく大学から除籍されないためには47万円を振り込まざるを得ないことだけが明白だった。もっとも、延納期日は去る八月二日であり、その事実に内定先の懇親会に出席するために宿泊していた名古屋のホテルで気が付いた私は、学務に電話で四千円の過払いを命じられていた。明日はその四千円を払うために、学生最後の夏季休暇中にも関わらず大学へ行かねばならなかった。もちろん通学定期は期限が切れている。失われた47万円と、明日失う四千円および交通費のことを考えると、自然と溜息が漏れた。今日だけでとんでもない量の二酸化炭素を排出している気がした。もっとも、人間の呼気にどれだけの二酸化炭素が含まれているかを私は知らない。

携帯に掛かってくる電話は身内がほとんどであり、それ以外から掛かってくることは滅多にない。先日の学務からの電話は非常に貴重な例に当たる。そしてそれはアルバイト先の喫茶店でも同様である。アルバイト先ではホールは私一人が仕切るため(一人で事足りるほど店は小さい)、おのずと電話は私が取ることになる。電話はほとんどが取引先の肉屋、業務用スーパーからであり、それ以外は当たり前だが全て客からの電話である。月曜日の夕方―おそろしく暇な時間帯である―に電話が掛かってきた時も、おそらく肉屋かスーパーだろうと見当をつけつついつも通り受話器を取ると、聞こえてきたのは聞き馴染みのない男性の声だった。おそらく四十代で、なんとなく小太りのような声だった。男性はくぐもった低い声で、先日あなたを見ながら店内で自慰行為をしたのですが、どうでしたかと言った。なんのことだかさっぱり分からなかった。とにかくセンテンスを頭の中で区切ってみた。先日、あなたを見ながら、店内で、自慰行為をしたのですが。そこまでは理解できた。どうでしたか。どうでしたか?どうもくそもない。私はその事実を知らなかったし、できることなら知りたくもなかった。そこまで考えが及んでようやく、これが悪質で、真面目に対応すべきでない電話であることに気が付き、失礼しますと告げて受話器を置いた。受話器を置いた瞬間、気持ちの悪い後味と、なぜ私が失礼しなければならないんだという自責の念が込み上げてきた。
キッチンに戻ると、奥さんがなんの電話だったのと尋ねてきた。私は逡巡したものの、うまい嘘を思いつかなかったので、包み隠さず電話の内容を報告した。奥さんはやだあと大きな声を上げ、気持ち悪いと言いながら身をよじらせた。そのよじらせ方から本当に気持ちの悪い様子が伝わってきたので、私は思わず笑った。二人でしばらくそのようにして身をよじらせ笑いあうと、気持ちの悪い後味は和らいだ。それでも、電話が鳴るといまだに少し身構えてしまう自分がいる。学務からの電話のほうがよっぽどましだ。