神様のくれた結末
近所でたまに見かける犬がいる。
賢そうな細身の犬で、おそらく飼主は中国人なのだが、以前見かけた時はかなり早口で大声の中国語で叱責されている様子だった。元々の中国語の意味が私には分からないので彼(もしくは彼女)が何をしでかしたのかは分からないが、犬にそんなに言っても仕方ないのではと思うほどの剣幕だったのを覚えている。
久しぶりにその犬を今日見かけた。穏やかに北へと通りを闊歩しており、思わず目で追って微笑んでしまった。
人間にも犬にも言えることだけれど、犬は飼い主を選べない。ただ人間と犬が大きく違うのは、飼い主は犬を選べるが、親は子供を選べないということである。
久しぶりに降り立った京都駅は、相変わらず人が多くじめじめとしていた。
新婚旅行から帰ってきてすぐ東京出張、仙台帰省が続いていたため、正直この京都駅の蒸し暑さですら安心感を覚えてしまった。京都駅を出発した時と違うのは、私の隣には仙台から連れてこられた母もいることだ。東北新幹線、東海道新幹線と乗り継ぎを重ねて疲れているはずだが、母は意外にもお腹が空いたと元気そうな様子だった。
最初に寺町通の予約していた料亭へと向かった。夜はそれなりの値段のコースしかないが、昼はかなりリーズナブルな値段で仕出弁当を食べさせてくれる。弁当といってもお重になっており、刺身や出汁巻卵に加え、胡麻豆腐や茶碗蒸しも付いてくるのでこの値段は破格である。店主が温かいお茶を注ぎながら、どちらからいらしはったん?と尋ねてきて、私は京都に住んで四年だが母を仙台から連れてきたと返すと、それは遠くからようきはりましたねえと頷いた。接客の一環として会話してくれただけだと思うが、母は京都弁への恐怖心から早く出た方がいいかとそわそわしていた。臆病な所に血の繋がりを感じる。
京阪で出町柳駅まで北上し、母が見たいと言っていた鴨川の飛び石に来た。子供や大人に混じって白い大きな犬が体を弾ませて飛び石を飛んでおり、母が嬉しそうにその様子を眺めていた。おかあさんも飛びなよと促したが、膝が怖いと言って二つ目までの石で引き返してきた。写真を撮ったが本当に怖かったらしく、八の字眉の引き攣った笑顔しか撮れていなかった。申し訳ない気持ちになった。
その後もレコードが聴ける純喫茶や母が見たかった自社仏閣等を周り、要所要所でタクシーを使ったにもかかわらず歩数は一万歩を超えた。私のマンションのゲストルームに母を送り一緒に泊まろうとしたが、自分の部屋に帰るように強く薦められた。私の体調が本調子でないことを母は理解しており、自分のベッドで寝た方がいいと言ってくれた。私がいないと寂しくない?と尋ねると、一人暮らしみたいで楽しいから大丈夫と照れくさそうに微笑んだ。もしかして一人暮らししたことない?と聞くと、実家を出て結婚するまでお茶の先生の家に下宿していたので本当の一人暮らしはしたことがないとのことだった。母は思った以上にお嬢様だったらしい。パジャマを貸す際にアイスやお菓子も持たせて、お風呂上がりにタオル一丁でうろうろしてアイスを食べるのが一人暮らしの醍醐味だよと教えると、母は嬉しそうに笑った。
京都旅行は三日間の工程だったが、晴れ女の私と雨女の母がいたことで、全体を通してぐずついているがぎりぎり傘はささなくてもいいという拮抗した天気となった。初日に予定を詰め込みすぎた反動で母の足も若干痛み、天気もそんなに良くないことから、猫カフェで猫のイビキを聞くくらいで残りは私のマンションで過ごした。今のマンションに親が来るのは初めてのことだ。母が結婚の際に振り込んでくれたお金で買ったローランドの88鍵盤のピアノが壁に立て掛けられているのを目ざとく見つけられ、なにか弾いてよと頼まれた。買ったものの仕事に忙殺されて今年に入ってから電源を入れた記憶がない。おぼつかない手つきでドビュッシーのアラベスク一番を弾くと嬉しそうに拍手した。こんなおぼつかないドビュッシーを聴かせたことが恥ずかしく、唯一暗譜しているロンバケの挿入歌セナのピアノIIを弾いてみせた。母はしみじみとキムタクだわねえと拍手した。あまり嬉しくはない褒め言葉だった。
あっという間に帰りの新幹線の時間となった。行きは私が先導できたが、帰りは母一人で帰らなければならない。母のスマホでチケットを手配したものの、私なしで東海道新幹線から東北新幹線の乗り継ぎが出来るか不安で仕方なかった。中途半端な昼前の時間の便だったため、ホームに母を待たせ、キオスクでおにぎりやお茶を買った。新幹線がやってきて母が乗り込むのを見送ると、自分の手に今さっき買ったキオスクの袋と、重いので発車直前まで持っておこうとした母の全荷物が詰まったロンシャンがあることを思い出した。ベルが鳴り響く中新幹線に飛び乗りおかあさん!!と絶叫しながら荷物をぶん投げて文字通り外に転がり出た。閉まったドアの向こうで床から荷物を拾い集めて笑っている母が見えた。
帰ったマンションは少し広く感じた。本当に一人きりになったのは実に一週間ぶりのことだった。(夫は私と入れ替わりで東京の実家へと帰省している)ソファの端に母に貸していた私のパジャマがきちんと畳まれているのを見つけ、泣いてしまった。おかあさんらしいなあと思った。帰りももっとスマートに見送りたかった。二日目は適当に作った冷凍うどんなんか食べさせずに、タクシーでどこか美味しいところに連れて行ってあげればよかった。足が痛いと言っていたけど、いつのまにこんなに足が痛むようになったんだろう。三日間歩く時はずっと手を繋いでいたけど、すごく手が小さく感じた。三日間の色んなことを思い出してしまい、気がつくとパジャマに顔を埋めてわんわん泣いていた。ようやく泣き止むと、濡れてしまったパジャマを洗濯籠に放り込んだ。
ゴールデンウィークも残り二日となってしまった。残り二日の目標は、ドビュッシーを少しでもなめらかに弾くこと。
Thank you, my twilight
結婚式が終わった。
直前の一週間は怒涛の勢いで過ぎ去り、毎日誰かと何らかの打ち合わせをしたり、様々な方面のプロの手に体のどこかしらを手入れしてもらっていた。
今ではあれは夢だったのかなと思えるほど、すっかりいつもの日常に戻ってしまった。毎日熱心な信者のように口にしていた酵素ドリンクは冷蔵庫の隅に追いやられ、ずっと我慢していたパン屋さんのパンを解禁し、断っていたありとあらゆる飲み会のすべてに顔を出した(なんなら二次会のダーツバーまで行った)。体重はあっという間に増え、いなくなった下腹部の肉は一度餌を与えてしまった野良猫のように至極当然といった顔をして舞い戻ってきた。減らすのはあんなに大変だったのに皮肉なものだと思う。部屋の隅にあるクリーニングやら手洗いを済ませもう二度と着用することのないであろう細々とした小物と結婚証明書だけがあれが夢ではなかったことを教えてくれる。
式は地元ではなく京都の小さな式場で挙げた。夫の実家も私の実家も京都ではないので、ほとんどの人が府外より駆けつけてくれた。好きな人たちが、絶対交わることがないであろう京都で同じ画角に収まっている写真を見ると、好きなアニメの本編では絡むことのないキャラ達が出るスピンオフを見ているような気持ちになった。一切の余興を許さず、スピーチもごく最低限の時間に抑えたのに、気がつけばなんの料理や飲み物も口にすることなく、友人とゆっくり会話もできないまま退場の時間になってしまった。退場曲はたった一人の友人のことだけを思い、椿屋四重奏の嵐が丘にした。この曲は中学で一年しか共に過ごさなかった彼女が神奈川に引っ越してしまう際に、CDに焼いて渡してくれたアルバムの中の一曲だった。イントロの時点で友人が号泣しているのが視界に入り、私も泣いてしまった。自業自得である。友人たちが送ってくれた私の顔は涙でぐしょぐしょだったけど、流してよかったなと思う。
翌日は父母と母方の叔父叔母を連れて北山へ出かけた。植物園や陶板名画の庭を楽しんだ後、予約をしていた和食屋でお昼ごはんを食べた。父母たちは式場そばのオークラに泊まっており、オークラの豪勢な朝ごはんについてひとしきり褒め称えた後、でもパンだったから白いご飯が食べたかったのよねと言い合い笑った。炊きたてのご飯が日本昔ばなしでしか出てこないような巨大な土釜でテーブルに運ばれ、あんなに朝ごはんでお腹がいっぱいだと話していたのに土釜はきれいに空になった。見事なものである。こじんまりとしたお店で、店の中から小さいけどよく手入れのされたきれいな石庭が見え、外国人も一人もいない落ち着いた空間だった。これは今の京都ではちょっと見つけるのに苦労するくらい良い店だと思う。京都駅まで父母たちを見送った直後、彼らがいなくなったのを見計らったように連日の雨が続いた。雨が上がると京都はあっという間に夏を迎えてしまい、今では連日35度、36度を叩き出している。
後日、映像会社からエンドロールのムービーが送られてきた。見たことのない表情の友人や親族が写っており、いい映像だった。高いなと思ったけど、人生で一回くらいこういうことにお金を使ってもいいのではと思えた。今では失われたお金を取り戻すようにいかにお金をかけずに暮らすかに注力している。今日は炎天下のまちを散歩して祇園祭の練習をしている笛や太鼓の音が漏れてくるのを聴いて暇を潰し、さすがに暑すぎたので御池ゼストで冷房を浴び、帰りはぎりぎりまで地下駐車場を練り歩いて車のナンバーを見ながら車種と地域の関連性について討論をしながら直射日光を避けて家路に着いた。お金がなくとも楽しいと思える人間同士でよかった。
視界
富士山だよ、と声がした。
新幹線は火災事故の影響で停止と徐行を繰り返しており、左側の車窓にこころなしかいつもよりゆっくりと富士山が流れていくのが見えた。私の右側に座っている母親が、さらにその右側に座っている男の子に、ほら富士山、と再度声を掛けた。私はできる限り背中を座席にくっつけて男の子の視界を邪魔しないように配慮したが、男の子は特に何の感動も得られないようだった。いま名古屋?と男の子が母親に尋ね、私は心の中で名古屋から乗ってきたやないかとツッコミを入れた。母親は慣れた様子で、富士山は静岡にあるんだよ、と教えてあげて、彼が飽きないようにお菓子を鞄から取り出した。私は彼の分も富士山を目に焼き付けることにした。遠くからは子供が大声でぐずっている泣き声がした。世の中の全ての親はえらいと思った。
今年ほど目まぐるしいという表現がしっくり来る一年は無かったように思う。
四月に新卒で入社した会社を辞めた。きっかり七年間勤めたことになる。あんなに辞めたいと思ったのに、転職が決まるとどこか寂しい気持ちになった。色んな人から色んなものが京都の田舎にある営業所に押し寄せた。いい七年間だったのかもしれない。
退職してすぐ三十歳の誕生日を迎えた。三十代と聞くととんでもなく大人に感じたけれど、中身は何も変わっていないように思う。頭の上に年齢が表示される世界線じゃなくてよかった。有休消化で訪れた沖縄で思い切り羽を伸ばした。曇天の沖縄は人が少なくて逆に楽しかった。道に迷って全く観光地じゃないところで食べたソーキそばの味が忘れられない。また行きたい。
五月からは全く業界の違う会社に転職した。社員規模はほぼ同じだったけれど、社風や業務内容は正反対の会社だった。仕事のできないおじさんやおばさんはおらず、ほとんどが入社して数年とは思えないバリバリの若手で構成されていた。毎日耳にしたこともないカタカナが飛び交い、やれやれと思いながら勉強した。お陰で三十歳とは思えないほど新しい知識を吸収した。せざるを得なかったと言い換えたほうがいいかもしれない。みんな当たり障りなく優しい代わりに、甲斐甲斐しく面倒を焼く、みたいな文化はこれっぽっちもなかったので、夜中に稼働直前の得意先からロジックが合わない、と言われると自分のハングリーさを試されることとなった。吐きそうになりながら原因と改善策を考えて、手当たり次第に頼りになりそうな人に声を掛けた。(こういう状況で、ここまで調査して、改善策をこう考えてるんですけど合ってますか?)甲斐甲斐しく面倒を見る人がいない代わりに、声を上げると助けてくれる人がいるのは、この会社の唯一の良心だった。二度ほど危機を乗り越えて、私は助けてくれた人たちにおでこが擦り切れるほど土下座を(する勢いでお礼を)した。私をいつも助けてくれる新卒二年目の男の子は、夜中まで賞与の計算に付き合ってくれた後、けろりとした声で「こういう事例もあると知れてよかったですね、勉強になりましたね」と言った。心の底からそう思ってるらしかった。私は改善しなかった時の影響の大きさによる恐怖と、夜中に迷惑をかけてしまったことによる罪悪感で涙と鼻水でぐしょぐしょになっていたので、画面オフのままお礼を言った。とてもこの会社でやっていける自信がなかった。
新横浜について、横の親子が席を立った。隣がぽっかり空いたので、右側の車窓が見えるようになった。外は真っ暗になっていて、遅延の影響で東北新幹線への乗り継ぎがうまく行くか少し不安になったが、見計らったように夫からLINEが来た。遅延は五分ほどなので間に合う、中央口が死んでいるので日本橋口から乗ると良いとのことだった。今年一番変わったことといえば、結婚して彼が夫になったことだった。転職してあまりのギャップに毎日泣いていた時に、変に慰めるでもなく、いらないアドバイスをするでもなく、ただ静かに側にいてくれたのは私にとってかなりありがたい事だった。元は他人のはずなのに、生活を共にしていくにつれ気持ちが通じることが増えてきたことが嬉しい。あと私のことを外で話す時に嫁ではなく妻と言ってくれるのも嬉しい。ありがとうとLINEを返すと、バキ童スタンプが返ってきた。これも彼の良いところだと思う。
祈り
あまりにも正月らしくない正月だった。正月にしては暖かすぎるし、酷いニュースが多すぎる。
帰省中に学生時代の友人四人と会った。一人は妊娠しており(妊娠祝にジョンマスターオーガニックのオイルを渡した)、一人はマンションを買ったらしい(引越祝は今治タオルがいいと言われている)。一人は昨年会社が倒産し(一緒に初詣に行き神頼みした)、一人は夫婦仲に問題を抱えていた(話を聞くしかできることがなかった)。みなそれぞれの人生を歩み、それぞれの悩みを抱えているようだった。自分だけがうまく人生をすすめられていないように感じた。このまま帰るわけにはいかないという使命感が芽生えた。
帰省最後の一日は誰にも会う予定を入れなかった。母親と近所のショッピングモールまで歩いて買い物に行った。今年はあったかいねえと母が7回程繰り返し、その度にそうだねえと返事をした。地元は京都とは反対に着実に人口が増えているらしく、道すがら建設途中のマンションを何棟か見かけた。職人さんたちが正月だというのに黙々と作業に取り組んでいて、もうじき仕事が始まる自分の姿に重なった。
母親が仕事に行くというのでパート先のスーパーまで見送った。スーパーの上には大学時代にアルバイトをしていた個人経営の喫茶店があったが、生憎まだ正月休みだった。2kmほどの距離なので地下鉄は使わず徒歩で帰ることにした。町はまだ正月休みで閉まっている店が多かった。道には人が少なく、ひなたで野良猫が気持ちよさそうに寝そべっていた。確かに平和だった。
ドラッグストアでシャンプーの詰め替えとティッシュとトイレットペーパーを買った。残り少なかったシャンプーを詰め替え、空になったティッシュの空き箱を捨て、新しいティッシュをセットした。トイレットペーパーはトイレの棚に並べた。帰省中に会った友人たちにはラインで写真を送った。みんな悩みはあるだろうけれど、一瞬を切り取った写真の中では楽しそうだった。これが私にできる範囲の平和への貢献だった。
今年はもう酷いニュースを見ないで済むことを願う。
レモンケーキ
秋になるとどうにも寂しい気持ちになる。
恋人の有無とか友達との予定とか、そんなの関係なく、なんというか、とにかくやるせない気持ちになる。気温が下がって、冷たい空気が服の隙間からするりと入り込んで物理的に体を冷やすのと同時に、心まで冷たくしてしまうような気がする。でもきっとそれだけが原因じゃない。
同居している彼氏とは先日一年記念日を迎えた。出会ったのは去年の七月の終わりだったから、彼と過ごす二度目の夏を終えたことになる。去年の今頃は一年後御池で一緒に同棲するなんて想像もつかなかった、と私がいうとおれもだよと笑った。エースホテルの三階のイタリアンは宿泊しているであろう外国人の集団しかおらず、月曜日から記念日を祝っている男女は我々以外には見当たらなかった。外国人は体温調整機能が我々とは段違いに発達しているようで、屋内席が空いているにも関わらずわざわざテラス席でビールをおいしそうに飲んでいた。半数以上が半袖だった。ウェイターはあまりにラフな格好なため最初客と見分けがつかなかったが、目があった瞬間颯爽と歩み寄ってきたことでほっとした。彼氏がコースの内容を決めた後飲み物のリストを頼むと、自慢の息子の写真が収まったアルバムをお披露目する親のようににっこりと微笑んでリストを広げてくれた。我々が季節のジントニックと生姜と葡萄のハイボールを頼むと、息子のアルバムを小脇に抱えて颯爽とカウンターに戻り、実は娘もいたんですよと言わんばかりの笑顔でジントニックとハイボールを連れてきた。確かに美味しいハイボールだった。料理もおいしかった。どれも西院では食べたことのない味だった。
帰り道に御池通を歩いているときに、このやるせなさの原因がわかった。姿は見えないのに確実に辺りに蔓延している金木犀の匂いだ。これのせいで、過去の記憶がやたら掘り起こされて寂しくなってしまうんだ。尼崎でも東大阪でも同じように金木犀の匂いを幾度となく感じてきた。社会人になってから恐ろしい頻度で住む場所が変わり、勤務地も変わり、時には予想もしていなかった誰かと生活を共にしていたりする。今の生活に不満はないし、不満どころか自分の身の丈にあっていないほど立派な暮らしをさせてもらっている。端的に言えば幸せだった。去年の今頃じゃ考えられなかった。ということは来年も今とは予想もつかなくなっているんだろうか。この穏やかな日々が来年もし消え去っていたらという恐怖が、金木犀の匂いとともに鼻腔から体内に散りつもっていった。
家に帰ってから誰かこんなこと歌ってたよなと思って検索したら、きのこ帝国が歌っていた。ちょっと救われた気がした。
土曜日は散歩がてら河原町のBALへ行った。無印良品週間だったので店内はひどく混雑していた。金木犀のディフューザーは完売だった。若いカップルが立ち尽くしており、どこの店舗にも無い、と落ち込む彼女を彼氏が慰めていた。彼らを横目にお目当てのウッディのディフューザーを持ち帰った。悩んだ末にトイレに置いた。彼氏が出張から帰ったときに、リビングが違う匂いだと嫌かなと思ったから。トイレに置いてから、彼が―私にとっての金木犀のように―ウッディの匂いに何か思い出があるかもしれないという可能性に気がついてしまった。なにもないことを祈る。
たのしいおすしやさん
「コロナが出ました」と彼女は言った。つい数分前に私の鼻に突っ込んだ綿棒を調べて粘膜検査している最中だった。陽性ですねとか、コロナですねではなく、コロナが出ましたと言った。お化けじゃないんだからと思ったが、今日初めて会った看護師相手に文句も言えないので私は申し訳なさそうに肩をすくめた。流れるように医師の説明を受け、薬を持たされ、正面口ではなく裏の勝手口みたいな細いドアからお大事に、と帰された。何も言わないのはあまりにも可哀想だから仕方なく付け加えました、と言った感じのお大事にだった。細い裏通りに突然降り立った私を、猫が困ったように見上げていた。猫にさえ可哀想に思われているようだった。
最初の二日は高熱にうなされていたので、嫌な夢を見ては起きるの繰り返しだった。得意先の電話を取っていたり、試験に追われたり、試合でミスをしたり、学校で忘れ物をしたり、嫌な記憶が時系列もはちゃめちゃになって雪崩こんでくるような夢だった。シーツは自分の嫌な汗でぐっしょりと濡れた。なんとか熱が下がったタイミングで廊下を這うようにして歩き、シーツと枕カバーとタオルケットを洗濯機にぶちこんだ。冷房をがんがんにして洗濯物を乾かす間は、予備のタオルケットで体を包み椅子に縮こまった。何かの罰でも受けているように感じた。
後輩と彼氏が食糧を買ってきてくれて、アパートの玄関前に置いてくれた。正直誰かにお願いをするという行為が激しく苦手な私にとって、なにも言わずとも行動に移してくれる彼らの存在はとてもありがたかった。後輩の袋にはゼリーやお粥に混じって知育菓子が入っていた。私のことを赤ちゃんだと思っているらしい。彼氏の袋には果物やポカリに混じって400グラムの冷凍ちゃんぽんが入っていた。元気な時でも食べれないだろう。二人の買って来てくれた食糧を冷蔵庫にしまいながら、ツッコミが出来るくらいまで回復したことにちょっと感動した。
神戸
珍しく何も予定のない日曜だった。空は雲が垂れ込めていて、隙間から若干の青空が見えると言う具合だった。一か八かという気持ちで洗濯物を干した。後輩の女の子から連絡があり、今日の予定を尋ねられた。何もない、今洗濯物を干しているところだと伝えると、神戸へ行きませんかと誘われた。もうすぐ知人が亡くなってから半年なのだと彼女は言った。まだ行ったことはないけれど、神戸の高台にお墓があるらしい。あれからー彼女の知人が亡くなって、二人で泣いた綺麗な夕焼けの日からーもう半年が経つのだ。時の流れは年々加速していくように感じる。
京都から神戸までは彼女の白いBMWで向かった。高速に乗ると突然の豪雨に見舞われた。フロントガラスに大粒の雨がたたきつけられ、車内はさながら銃撃戦のような音に包まれた。洗濯物…と絶望した顔で私が呟くと彼女は赤ちゃんのように手を叩いて笑った。京都を出たあたりで雨は上がり、うってかわったように日差しが照りつけた。彼女は良かったですねと言い、片手をハンドルにかけたままもう片手でサングラスを掛けた。女の私から見ても惚れ惚れするほど無駄のない洗練された仕草だった。
高速を降りてすぐのコーナンに寄った。郊外らしい敷地面積のコーナンだった。立体駐車場にはひっきりなしで車が吸い込まれていき、なぜこれだけ大勢の人間がコーナンに押し寄せるのか意味がわからなかった。店内に入ってすぐコーナンの匂いがすると私が言うと、彼女もわかりますと同意した。仏花を二束と線香とマッチを買った。
墓地はとても広かった。区画ごとにアルファベットと番号が振り当てられており、墓を探す二十代女二人組はどう見てもドームで自分の席番を探すアイドルオタクにしか見えなかった。墓を見つけ、水差しに水を入れて花を挿した。風が強く吹いていたので、私が手で覆って彼女がマッチを擦った。火は勢いよくつき、線香を傾けた。一瞬激しい赤い光が点滅した後、煙が細く立ち上った。手を合わせて、ついに一度も会えなかった故人に思いを馳せた。
あなたがいなくなってからしばらくは、本当に大変な日々だった。後輩は一人でいたくないと言い、毎日一緒に夜ご飯を食べた。丁度日本シリーズの時期で、会話には困らずに済んだ。月曜から水曜は近所の居酒屋で、木曜金曜は私の家でテレビを見た。日本シリーズはシーズンをろくに見ていない人間にも平等に面白かった。夜ご飯の時は楽しそうにしていても、ふとした瞬間にどうしても悲しみに襲われることは多々あった。一度仕事中に過呼吸になった彼女から呼び出されたこともあった。社用車の運転席で、薄い体を折りまげ、吐く様にして泣いていた。窓が閉まっているのに彼女の泣き声が聞こえた気がした。見ているだけで辛くなる泣き方だった。背中をさすり、水を飲ませた。賢い忠犬のように、車の外に座り、じっと彼女の側に寄り添った。会ったことがないのに、こちらまで悲しくなるような死は初めてだった。彼女の体験を通して、私は自分の好きな人が死んだらという恐怖をどうしても見つめざるを得なかった。
彼女から故人の話が出る様になったのは、つい最近だ。半年かけて、死は我々の生活に馴染み、溶け込んでしまった。死は生の対極ではなく一部なのだという事実がそこにはあった。
目を開けると、青い空とグレーの墓石と赤や黄色の仏花が目に眩しかった。なんだか夏休みみたいだなと思った。後ろを振り返ると神戸の海とビルの群れが見えた。ここなら故人も寂しくないだろう。我々は車へともどった。
帰り道の喫茶店でプリンとコーヒーを食べた。嘘みたいにおいしかった。家に帰ると洗濯物は濡れていた。そんな日もある。