富士山だよ、と声がした。
新幹線は火災事故の影響で停止と徐行を繰り返しており、左側の車窓にこころなしかいつもよりゆっくりと富士山が流れていくのが見えた。私の右側に座っている母親が、さらにその右側に座っている男の子に、ほら富士山、と再度声を掛けた。私はできる限り背中を座席にくっつけて男の子の視界を邪魔しないように配慮したが、男の子は特に何の感動も得られないようだった。いま名古屋?と男の子が母親に尋ね、私は心の中で名古屋から乗ってきたやないかとツッコミを入れた。母親は慣れた様子で、富士山は静岡にあるんだよ、と教えてあげて、彼が飽きないようにお菓子を鞄から取り出した。私は彼の分も富士山を目に焼き付けることにした。遠くからは子供が大声でぐずっている泣き声がした。世の中の全ての親はえらいと思った。
今年ほど目まぐるしいという表現がしっくり来る一年は無かったように思う。
四月に新卒で入社した会社を辞めた。きっかり七年間勤めたことになる。あんなに辞めたいと思ったのに、転職が決まるとどこか寂しい気持ちになった。色んな人から色んなものが京都の田舎にある営業所に押し寄せた。いい七年間だったのかもしれない。
退職してすぐ三十歳の誕生日を迎えた。三十代と聞くととんでもなく大人に感じたけれど、中身は何も変わっていないように思う。頭の上に年齢が表示される世界線じゃなくてよかった。有休消化で訪れた沖縄で思い切り羽を伸ばした。曇天の沖縄は人が少なくて逆に楽しかった。道に迷って全く観光地じゃないところで食べたソーキそばの味が忘れられない。また行きたい。
五月からは全く業界の違う会社に転職した。社員規模はほぼ同じだったけれど、社風や業務内容は正反対の会社だった。仕事のできないおじさんやおばさんはおらず、ほとんどが入社して数年とは思えないバリバリの若手で構成されていた。毎日耳にしたこともないカタカナが飛び交い、やれやれと思いながら勉強した。お陰で三十歳とは思えないほど新しい知識を吸収した。せざるを得なかったと言い換えたほうがいいかもしれない。みんな当たり障りなく優しい代わりに、甲斐甲斐しく面倒を焼く、みたいな文化はこれっぽっちもなかったので、夜中に稼働直前の得意先からロジックが合わない、と言われると自分のハングリーさを試されることとなった。吐きそうになりながら原因と改善策を考えて、手当たり次第に頼りになりそうな人に声を掛けた。(こういう状況で、ここまで調査して、改善策をこう考えてるんですけど合ってますか?)甲斐甲斐しく面倒を見る人がいない代わりに、声を上げると助けてくれる人がいるのは、この会社の唯一の良心だった。二度ほど危機を乗り越えて、私は助けてくれた人たちにおでこが擦り切れるほど土下座を(する勢いでお礼を)した。私をいつも助けてくれる新卒二年目の男の子は、夜中まで賞与の計算に付き合ってくれた後、けろりとした声で「こういう事例もあると知れてよかったですね、勉強になりましたね」と言った。心の底からそう思ってるらしかった。私は改善しなかった時の影響の大きさによる恐怖と、夜中に迷惑をかけてしまったことによる罪悪感で涙と鼻水でぐしょぐしょになっていたので、画面オフのままお礼を言った。とてもこの会社でやっていける自信がなかった。
新横浜について、横の親子が席を立った。隣がぽっかり空いたので、右側の車窓が見えるようになった。外は真っ暗になっていて、遅延の影響で東北新幹線への乗り継ぎがうまく行くか少し不安になったが、見計らったように夫からLINEが来た。遅延は五分ほどなので間に合う、中央口が死んでいるので日本橋口から乗ると良いとのことだった。今年一番変わったことといえば、結婚して彼が夫になったことだった。転職してあまりのギャップに毎日泣いていた時に、変に慰めるでもなく、いらないアドバイスをするでもなく、ただ静かに側にいてくれたのは私にとってかなりありがたい事だった。元は他人のはずなのに、生活を共にしていくにつれ気持ちが通じることが増えてきたことが嬉しい。あと私のことを外で話す時に嫁ではなく妻と言ってくれるのも嬉しい。ありがとうとLINEを返すと、バキ童スタンプが返ってきた。これも彼の良いところだと思う。