金木犀

街にはどこもかしこも金木犀の匂いが溢れていた。家を出た頃に降り出した小雨はいつの間にか止んでいた。赤信号で止まった隙にGAPパーカーのフードを脱ぎ、Googleマップを確認する。投票所まではあと五分ほどの位置まで来ていた。今から私は知らない町の知らない投票所に行き投票をして、ついこないだまで知らない男の子-現在の彼氏である-が待つ家へと帰る。この一年、本当に色んなことがあったなあとしみじみ振り返ると、金木犀の匂いだけは毎年どこにいても変わらないことに気が付いた。

去年の八月末に会社の同期だった彼氏に振られてから一年が過ぎた。三年と四ヶ月の付き合いだった。高校、大学とまともな恋愛なんかしたことのなかった私は人より周回遅れの人生を歩んでいたので、大抵の人が大学生のうちに済ませてきた失恋を二十六歳で初めて体験することとなった。髪を二十センチ切り、体重が八キロ落ちた。暇すぎて毎日した自己流の筋トレのせいで、足は変わらず太いのに腹斜筋だけが出現した。カラオケでモー娘。のシャボン玉を二桁以上は歌った。出会い系アプリはあらかたインストールした。初めて会ったJR東海の男の子は九月に出会ってから毎月会うほど仲良くなったが三月の人事異動をきっかけにそれ以来会っていない。二人目のIT企業の営業をしているという男の子は村上春樹1Q84を貸してくれたが、下巻を借りようとした際に家に連れ込まれそうになったので会うのをやめた。三人目の男の子は京大大学院に通っており、あまりにのんびりした学生気分(事実学生だから仕方ないけれど)のデートを重ねていくのに耐え切れずふっと連絡を途絶えてしまった。四人目の男の子は同い年だけれど院卒のため社会人二年目のシステム関係の会社員だった。院生の後だったからそう感じたのかもしれないけれど、それにしてもものすごいスピードで事が進んでいった。食事をして、お付き合いし、同棲をしてうまくいけば結婚を考えたいとの言葉に流されるまま同棲した。まだ一緒に住めるほど好きじゃないという私の気持ちは、一緒に暮らしたら好きになるかもよ、という彼の言葉で蓋をされた。

新居のシャーメゾンでは、ついこないだまでしていたレオパレス生活からは考えられないほど生活水準が引き上げられた。2LDKの部屋では常に二台の空気清浄機が稼働して湿度が六十パーセントに保たれ、洗面所にはおびただしい量の洗濯用洗剤と柔軟剤が並び、洗濯籠はおしゃれ着用と普段着用が並んだ。コンロ下には聞いたことも使ったこともない調味料が立ち並び、私がザルや鍋の蓋を勝手に使うと、怒られはしないもののなんで使ったのか理由を聞かれたり、一つ何かをするたびにこれは使うな、これを使えといった注釈が二つは返ってきた。メリットしかないと思っていた同棲生活は、蓋を開けるとメリットを上回るほどの窮屈がついて回った。すれ違いから口論が増え、口論になるとお互いのものの考え方やものの言い方が気に障り、憂鬱になった。彼のいうことは間違ってないし、私がずぼらなのは明らかだった。ただ神経質な彼と大雑把な私は、お互いにぴったりと寄り添えない存在なのだと口論になる度痛感した。まるでスーパーの冷蔵お菓子のコーナーに押し込められた豆腐パックのような気持ちだった。

十月も終わろうという頃に、何度目になるかわからない口論をした。私があなたのいうことは何一つ間違っていないけれど、私がそれをこなせる自信がないので結婚できる自信はありませんという旨を泣きながら伝えた。彼には私がどれだけ傲慢で利己的かを冷静かつ的確になじられた。私は泣きすぎて過呼吸になった。沢山の衝突を経て、我々は四月にはこの家を出たほうがいいという結論に至った。彼が吐き捨てるように早く寝たほうがいいと私に言い、私は枕を鼻水と涙で濡らしながら不貞腐れるように眠った。

朝起きると淹れたてのコーヒーが用意されていた。彼は人が変わったように優しくて、食卓には手の込んだ朝食がきちんと並んでいた。秋の朝特有の角度の低い太陽の光が満ちた部屋で、私はぼんやりと昨日の喧嘩は夢だったのだろうかと考えていた。怒りを継続させることはとても難しく、私は今でも自分がどうするべきなのかよくわかっていない。文章を書くことは私にとって事実を認識しやすくするのに最も適した行為だけれど、今回のことは文字に起こしても-それを我ながら読んでみても-何が書きたい文章なのかさっぱりわからない。この話の結論はなに?建設的な話し合いなの?と吐き捨てるように言った彼の言葉を思い出した。自分一人の気持ちだって綺麗に結論が出せないのに、それが二人分絡んできたら建設的になんてなる訳がないというのが私の正直な気持ちだった。ただそれをリアルタイムで言い返せるほど、私の頭も口も早く回らないのが現実だった。この書きかけの下書きも、何度も何度も編集して半月が経ってしまった。例によって私がブログを更新するのは新幹線に乗っていることが多く、今は名古屋と京都のちょうど間くらいにいる。全然綺麗な文章ではないけれど、この激動の一年を忘れないために形に残しておくことにする。本当はもっと清書したいけれど、スマートフォンの充電が残り三%になってしまった。このぐちゃぐちゃの文章もそれはそれでいい気がする。

来年の目標は、スーパーで豆腐パックが間違えてお菓子の冷蔵庫に置かれているのを発見したら元の場所に戻すこと。