jikanganai

ANA740便 10K列から見える窓の外は真っ暗だった。窓の外を見つめていると激しい悲しみに襲われるので、天井から降りているテレビモニタに意識を集中した。京菓子 金平糖の作り方のビデオだった。伊丹空港からバスで30分ほどで京都へ行ける、と締めくくり、次は北海道 大雪山の紹介ビデオとなった。集中できたのはそこまでで、私はマスクが自分の涙で冷たくなっていることに気が付いた。昔から涙腺は脆い方だったけれど、最近はそれに輪をかけて泣きやすくなった気がする。この帰省で読み掛けだった「アルジャーノンに花束を」を読み終えてしまった。この本には今の自分に刺さるものがありすぎたのだと思う。

 

 

事態の大きさを把握したのは水曜日の朝だった。火曜の夜中に東北で震度六の地震があったとテレビは伝えていた。家族に連絡を取ると、皿が割れたくらいで水や電気は止まっていないし大したことはないと返事が来た。母は数日前に目に帯状疱疹が出来たと話をしていたばかりだった。そんな目で片付けができるのかと聞くと、もうほとんど治りかけているので大丈夫だという。どこかもやもやした気持ちをかかえたまま出社すると、職場の幾人かから地震について心配の声を掛けてもらった。他部署の方からも心配のチャットが来ており、そのうちの一人の先輩に大丈夫みたいです、と返事をすると、まあ親って大丈夫しか言わないよなと返事が来た。その通りだと思った。母に事前に聞くと断られそうなので、黙ってそのまま会社のパソコンで飛行機の予約を取り付けた。土曜日、最低限の着替えだけ詰めたリュックを背負い、朝七時半に家を出て、十時半には仙台空港に降り立った。

 

交通の関係上、自宅に行くより先に学生時代アルバイトしていた喫茶店に立ち寄った。古ぼけていて壁中の本棚に大量の漫画本がぎゅうぎゅうに詰まっていて、地震なんかおきたらひとたまりもないことは想像にたやすかった。マスター達がいなかったらどうしようという不安の中おそるおそるドアを開けると、薄暗い店内から昔と少しも変わらない間伸びした奥さんのいらっしゃいませえという声がのんびり聞こえた。店内は私がアルバイトしていた頃から少しも変わっていない(コロナ対策のビニールシートが垂れているくらい)ように見えた。客は誰もいなかった。カウンターにまっすぐ向かい、大丈夫でしたか?と声をかけた。マスターも奥さんもきょとんとしているので、マスクを外してみるとああ!と驚いた顔をした。しばらく見ないうちに美人になったな、とマスターが無遠慮に笑った。今年の正月に会ったばかりだ。二人は元気なようで、漫画を詰め直すくらいで翌日には営業開始できたのに客が誰も来ないと寂しそうにこぼした。奥さんは私にコーヒーを差し出しながら、カップを置ける縁のついたソーサーがこの一枚だけになってしまって、あとはつるつるのソーサーしか残らなかったのよと苦笑した。私が昔たくさんソーサーを割った気がします、と気まずそうに言うと、マスターがそういやそうだなとまた無遠慮にガハガハと笑った。私が来たのを皮切りに、客足が突然忙しくなり始めたので、コーヒーを飲んだらさっさと帰ることにした。会計は無料だった。私が払うと言っても二人は断り、日曜は忙しいですかねと聞くとそんなこと気にすんな!とマスターは笑った。

 

街はほとんど変わらないように見えたけれど、営業停止している店や、所々に亀裂の入った道が地震のあったことを物語っていた。実家のマンションも、建物根元部分にひびがはいっていて、共有階段には手書きでキケンと書かれた貼り紙が貼ってあった。母は連絡もなしに帰った私に本当にびっくりしていたけれど嬉しそうだった。部屋は普段とあまり変わりないように見えた。流石に割れた皿は既に片付けられていたようだ。正月にプレゼントしていたカリタのガラスポットは奇跡的に無事だった。ガラスポットで早速母がお茶をいれてくれたけれど、お茶っ葉がだいぶ古くなっていて、あんまりおいしくないねと寂しそうにこぼした。私は慌てておいしいよ!とフォローしたが、確かにあまりおいしくなかった。

大きく変わっていたのはリビングの棚が分解されたままだったことくらいだった。組み立て直さないのかと聞くと、また余震で崩れるからと笑った。胸が痛んだけれど、その後鍋敷きや化粧水の場所を聞くと地震でどっかいったねとはぐらかされた。部屋が汚いのを地震の免罪符にするな。

父も私が帰って来たのが嬉しいらしく、晩の食卓には父がスーパーで買ってきた大トロが並んだ。突如押しかけたので晩ごはんは他におでんしかなかったらしく、私のお陰で豪華になったと兄と母は喜んだ。

夜、父と母とテレビを見ていると、父がだいぶ小さく見えることに気がついた。父はおもむろに私に向かってずっと関西でいいのか、結婚しないのかと問いかけた。関西にももう慣れてしまった、結婚はできそうにないと返事をするとガハガハと笑った。マスターみたいな笑い方だった。おじさんはみな一定の年齢を過ぎるとガハガハと笑うのかもしれない。

実家にはフォルクスワーゲンの黒いゴルフがあったのだが、車検に引っ掛かり売ってしまったと母が寂しそうにこぼした。電車でどこか遠出したいという話になり、伊勢神宮に行きたいと父と二人で計画していると教えてくれた。

夜には冷えるからと兄が自前の毛布を貸してくれた。私が仙台についてから余震が止まったと言いながら、母は私に手を合わせた。

 

本当は家族以外には会わないつもりだったけれど、掃除も落ち着いていたので高校の友人と中学の友人に会うことにした。二人とも元気そうで嬉しかった。あっというまに帰りの飛行機の時間になり、私は急いで買ってきた鍋敷きと化粧水とルピシアのお茶っ葉を渡した。引き出しを漁って見つけた封筒にお金を包んで渡すと、父が苦笑いした。父の手にも同じ封筒があった。同じことを考えていたらしい。私たちは笑いながら封筒を交換した。

 

地震はいつどこで起きるかわからない。私が今住んでいる関西でも昔大きな地震があった。父と母は既に六十歳を超えている。悲しいし考えたくないことだけれど、人は必ず老いていく。そして本当にー地震に限らずー人生いつなにが起きるかわからない。日常の忙しさに飲み込まれて忘れてしまいそうになるけれど、時間は無いのだった。今回の帰省で交通費や見舞金合わせて十万円使ってしまった。父と母の伊勢神宮への旅行はいくらあったら足りるのだろう。私の不毛な同棲生活も早く引っ越し先を見つけて終止符を打たなければならない。チャーリィが知力が低下する前に家族に会いに行く描写が自分のすべきことのように感じた。私にはそんなに多くの友人がいるわけではないけれど、せめて帰省で会った人や、できれば会えなかった友人も、そしてなにより家族には、私が生きている間に少しでも何かしたいしそれができるだけの財力が欲しい。締日明けかつ三連休明けの火曜日が地獄みたいに忙しいことは明白だった。今回の帰省が消えかけていたやる気が少しだけ戻るきっかけになったと思う。火曜日から頑張るから、今日は何もせずに泥のように眠りたい